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ハート流布少年の備忘録

良いと思ったことや作品を「いいね!」と言うためのブログ

火曜ドラマ『カルテット』全話を通して思ったこと

 

ついにドラマ『カルテット』が最終回を迎えましたね。

出演俳優・女優に釣られてめずらしく一話から観始めた作品でしたが、結果としてシナリオにも演出にも音楽にも心奪われ、毎話最低でも3回は観直すというカルテット中毒者になっていました。

というわけでして、もちろん最終回の後はカルテット・ドーナツホールの4人の会話を覗くことができない寂しさに襲われています。

この寂しさを紛らわすべく、カルテット総括レビューを書いていこうかと思います。

以下、最終話のネタバレもちょっと含みますのでご注意ください。

 

 

『カルテット』公式ホームページ

www.tbs.co.jp

 

 

 

全十話の大体のあらすじ

ざっくり言うと、カラオケで偶然出会った奏者の男女4人がカルテットを組み、軽井沢で共同生活をしながら音楽活動をしていくお話。 

カルテットを組んだのは、かつてはプロのヴァイオリニストを目指していたが結婚を機に一度音楽を辞めた・巻真紀、どこでも寝ちゃう無職系チェリスト・世吹すずめ、妙にこだわりが強くめんどくさい性格の残念なイケメンヴィオラ奏者・家森諭高、音楽家一族に生まれながらプロになれなかったヴァイオリン第二奏者・別府司。

 

彼らはたまたま出会ったのち「カルテットドーナツホール」として、軽井沢のスーパーやレストランで細々と音楽で食っていくための生活をしていきますが、この偶然の出会いは偶然ではなく、嘘や策略によって生まれたものでした。

作中ではそうした登場人物たちの隠したい過去、秘めた想いが徐々に紐解かれていきます。

 1話から4話ではカルテットドーナツホールのメンバーそれぞれの秘密が明らかになり、その後は真紀とその夫・幹生との関係や真紀の過去を中心として物語が進んでいきました。

 

 

足りない4人

リアルタイムで第1話を見た時、私はテレビの前でこう呟いていました。

「これ、たりないよにんだ……」*1

いい大人が唐揚げにレモンをかける/かけないで真剣に論争し、職にもつかずその日暮らしで気ままに音楽活動。

カルテットドーナツホールの四人は30代になっても夢を捨てきれず、その一方で実力が伴わないまま、音楽で食っていく生活を目指す……キリギリスのような生き方をしていました。

第1話で描かれた4人はどこが、どのように足りないかはそれぞれ違っていますが、確実に大人として、社会人として欠けています。

 1話以降でもカルテットの4人やその周囲の人々の「一般的な”人”として足りないところ」が幾度となく描かれてきました。

別府さんは真紀さんのストーカー。しかも真紀さんに振られた後に自分に想いを寄せていた同僚(すでに他の男性と婚約済み)に迫る、という松田龍平が演じていなかったらどうなっていたか恐ろしくなるようなダメ男。

家森さんはバツイチ子持ち、のちに無職。奥さんに「結婚していなかったら…」と夫婦の存在そのものを否定しておいて、よりを戻したがる未練タラタラ男。

すずめちゃんは父親に利用されて詐欺の片棒を担がされる幼少期を過ごし、いく先々でそのことを理由に辛い経験をしてきました。さらにその上、真紀の義母である鏡子に依頼されて、真紀の身辺を探るスパイとして働いていたという、嘘に嘘を重ねた身の上。

で、真紀さんも結局すずめちゃんのように嘘を繰り返してきた人生だったことが第8話あたりから最終話にかけて語られました。

真紀さんは他人の名義を不正に借りること、つまり、嘘をつくことで自分じゃない誰かの人生を謳歌していたのでした。だって、自分自身の人生はあまりにも自分と、何より他の誰かを傷つけるものだったから。

 

圧倒的足りてなさ。

いわゆる「ちゃんとした大人」は誰一人としていません。

カルテットドーナツホール以外の登場人物も淀君って呼ばれてたり、失踪癖があったり、子どもに対して過保護だったりとどこかしら足りていません。

 

しかも、この人たち、別にドラマの中で「ちゃんとした大人」になったり、「成功者」になったりするわけでもありません。

 カルテットドーナツホールは真紀さんのなりすましの件で、悪い意味で有名になってしまい、正当に音楽の実力を見てもらえなくなってしまいました。したがって、音楽で成功することもさらに難しくなってしまいました。

全員片思いだった恋の行方も、結局一方通行のまま。誰の想いも叶わないまま最終回を向かえました。

有朱というキャラクタに至っては、それまで散々周りを振り回す行動をしてきたにも関わらず、最終話にて「人生、チョロかったwwwww」という名言を残すくらい、以前よりさらに世の中舐めくさ太郎(否、花子かな)になってしまっており、もはや救いようがありません。

 

 

「ちゃんとした大人」と「意味のあるもの」

 劇中の「ちゃんとした大人」たちは、カルテットドーナツホールのメンバーをダメな大人として何度か揶揄しています。

その表現の仕方は「三流」、「四流」であったり、「無職」であったり様々ですが、最終話で出てきたカルテットドーナツホール宛てに書かれた匿名の手紙が最も辛辣で、的を射ていたと思います。

「世の中に優れた音楽が生まれる過程でできた余計なもの。

みなさんの音楽は、煙突から出た煙のようなものです。

価値もない。意味もない。必要ない。記憶にも残らない。

私は不思議に思いました。

この人たち煙のくせに、何のためにやってるんだろう。

早く辞めてしまえばいいのに。

私は5年前に奏者を辞めました。

自分が煙であることにいち早く気づいたからです。

自分のしていることの愚かさに気づき、すっぱりと辞めました。

正しい選択でした。

本日またお店を訪ねたのはみなさんに直接お聞きしたかったからです。

どうして辞めないでんですか?

煙の分際で、続けることに一体何の意味があるんだろう?

この疑問はこの一年間ずっと私の頭から離れません。

教えてください。

価値はあると思いますか?

意味はあると思いますか?

将来があると思いますか?

なぜ続けるんですか?

なぜ辞めないんですか?

なぜ?」

 余計なもの。

意味もなく、価値もないまま、世の中に必要ともされず、煙たがれる存在。

それがカルテットドーナツホールであり、夢を引きずる愚か者はとっとと音楽をやめるべきだと、この手紙の筆者は言っています。

手紙は彼ら4人に問いかけます。

なぜちゃんとしていない(=プロとして食っていけない、プロにもなれない!)のに中途半端に音楽を続けるのか、と。

 

ところで、ここで言われている「ちゃんとした大人」とか「意味がある音楽」って何を指しているのでしょう。

それは誰にとって「ちゃんとしていて」、「意味がある」のでしょうか。

 おそらく、手紙の送り主は音楽の発展や伝統の継承をする上での意味・価値を判断基準にして、カルテットドーナツホールは煙のような存在であるとしています。

多くの人が認めない、もしくは下手であるとする音楽を続けることに意味なんてないじゃん、と名も無い手紙の主は言っているのです。

「ちゃんとしていない」という言葉もこの手紙と同じような意図で使われていると思います。

定職にもつかず、ぶらぶらしているキリギリスは、社会や世間一般にとっては税金も納めてくれなさそうだし、社会貢献もしてなさそうだから、社会が求める基準に達していないから「価値がない」とされてしまうのです。

 

じゃあ、なんでカルテットの4人がそれでも音楽を奏でるのか。

それは、彼らにとっては奏でることに意味があるからです。

意味や価値というものは、もともと物や人に内在しているものではなく、人間が探したり、見出したりして生まれるものです。

それゆえに、誰かにとっては意味を見出せなくとも、他の誰かにとっては意味があるものも存在します。

例えば、家森さんにとってのパセリや、すずめちゃんにとっての片想いの恋は、他の誰かにとっては意味がないものかもしれないけれど、本人から見ればとても大切で譲れないものですよね。

そんな風にたとえ一人でも意味がある、価値があると感じているならば、他の多くの人々からは意味がないとされるものにでも意味は生じてくるはずです。

カルテットドーナツホールが最終回でついに行った単独コンサートでも、空き缶を投げつけてくる観客もいれば、ドラゴンクエストの『序曲』を聴いて喜ぶ中学生もいました。

100人中99人には届かなくとも、100人中1人に届けることができたならば、その音楽には意味も価値もあるのではないでしょうか。

そして何より、全員ではなくとも何人かには響いていることに、演奏している本人たちが意味や価値を見出しているからこそ、カルテットドーナツホールは音楽を続けるのだと思います。

世間が言う”理想”や”標準”を満たしていなくても、本人やその周囲の人が”これでいい”と思えていれば、それでいい。

『カルテット』のストーリー全体には、そうしたバカボンのパパ的な人間讃歌が溢れていました。

*2

 

 

自由を手にした僕らはグレー

 最終回のラストシーン、すっきりしない曇り空の下、カルテットドーナツホールは熱海の浜辺を駆けていきます。

彼らの問題は、一見すると何一つ解決していないし、片思いも一方通行のままです。

はっきりとした答えはありません。

しかし、これでいいのではないか、と私は思うのです。

白黒はっきりさせることが個人にとってよいことであるとは限らないと、この作品を観て気付かされたからです。

 

カルテットドーナツホールは誰も恋を実らせない。

夢と趣味、アリとキリギリス、どちらを選ぶのかもきちんとは決めないまま。

真紀さんが養父を殺したかどうかも定かではありません。

みんな、白黒つけない灰色のままの幕引き。

そうした態度を「ちゃんとしていない」と一蹴する人もいるでしょう。

でも、それでもよいのです。

カルテットの4人が”これでいい”と思えているのですから。

 

 

 

 

こんな上質なドラマを観させてくれて、ありがとう!

センキュー、パセリ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:2010年に放映されていた番組『潜在異色』で南海キャンディーズの山里さんとオードリーの若林さんが「たりないふたり」というコンビを特別に組んでコントや漫才をやっていたのを思い出してしまいました。

社交性など「人間としてどこか足りない」と自身を評価しているお二人が、飲み会をどう断るかといった側から見ればくだらないことを真剣に、面白おかしくお笑いにしていたのが懐かしい。

もっとたりないふたり|日本テレビ

*2:

余談

昨年の春に放映されていた『ゆとりですがなにか』では『カルテット』で巻幹生を演じていた宮藤官九郎さんが脚本を担当されていました。

このドラマの最終回では、山路という小学校の先生をしているキャラクタがこんなセリフを言っています。

 山路「果たして、完璧な大人っているのかなって、先生、思います。

       (中略)

みんなのお父さんとお母さん、完璧な大人ですか?

寝坊するよね。

酔っ払ってケンカするよね。

オナラするよね。

体と違って、心の思春期は生きてる限り続きます。

だから、大人も間違える。

怠る、逃げる、道に迷う。

言い訳する、泣く、他人のせいにする。

好きになっちゃいけない人を好きになる。

全て思春期のせいです。

大人も間違える。

間違えちゃうんだよ。

だから、他人の間違いを許せる大人になってください」

完璧でなければ、ちゃんとしていなければならないというしがらみを感じることが多いこのご時世にこのセリフを最後にビシッと決めるあたり、さすがクドカンだなーと思っていたのですが、『カルテット』にもこのセリフに内包されているなにかがありました。

「完璧でなくてもいいよ」という受容や許しが、昨今のドラマのキーワードであるような気がしています。

私も許せる大人になれているかなぁ。なりたいなぁ。